目的の違いで正当化されるのか
ベネッセの顧客流出事件で、勝手にDMが送られてきたと怒っている方たちがいます。
これが送られてきたのが、宝くじだったり、図書券だったり、現金だったりしたらどうなのでしょうか?
どこで調べたか分かりませんが、勝手に送られてくる納税通知書よりは、よほど歓迎することでしょう。
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目的の違いで正当化されるのか
「芸術はよいが、広告はあまり感心しない」というように、目的が異なるという理由で似たような手段を区別することに、どれだけ意味があるのだろうか。これらを区別したところで、目の前の課題の解決には少しも役に立たない。「目的が正しければ手段も正当化される」という不可解な規範を受け入れる意思を、我々はどれだけ持ち合せているだろうか。
たしかに、これにきわめて積極的な人々も大勢いる。聖職者、画家、詩人ばかりか、企業経営者も、「目的が正しければ手段は正当化される」という教義を信じているようだ。経営者が唯一他の人々と違うのは、反対はの攻撃にもかかわらず、商業上の目的を正当なものととらえている、という点である。反対派は、美術や文学における装飾的な表現を、人間の精神に及ぼす影響に照らして正当化するが、経営者は、産業デザインや広告における装飾やうたい文句、演出などを、人間の財布に及ぼす影響に照らして正当化する。
経営者はイマジネーションを限界まで引き出し、「販売促進や広告は、経済を拡大させ、雇用を生みだし、生活水準を高めるから、世の中のためになる」という自分たちに都合のよい理屈を、目に見えない蜘蛛の巣のように、ここかしこに巧妙に張り巡らす。経営者はいつでも「自分たちの目的は、音楽家、詩人、画家、司祭などの目的を達成するための手段としても役立つ」という自由な議論を展開できるし、実際にそうするだろう。目的が正しければ手段も正しいという論法は、当然ながら、微妙な側面を合わせ持っている。
経営者も芸術家も、仕事そのものに打ち込むよりも、自分の仕事や作品を正当化する理由を見つけ、語りたくなる。ところが、人間により大きな価値をもたらさない限り、自分たちの努力を正当化できない。芸術愛好者の「芸術のための芸術」という威勢のよいスローガンは、「自己利益を追求しているわけではない」という、体裁を気にする言葉を添えてもなお、最後は自身にとっても空しく響くだけなのだ。結局、コミュニケーションはすべて受け手に向けられる。したがって、芸術は受け手に有益で神聖な影響を及ぼすという証拠を示して、たえず自己の存在意義を正当化しなくてはならない。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
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では、また来週。