受け手のニーズを考えよ
週末のレビットアカデミー『広告の倫理性をめぐる考察』です。
前回『目的の違いで正当化されるのか』からの続きです。
今回も、含蓄ある、凄く大切なことをさらっと言っています。
広告のハナシを、芸術に関連付けて論じていますが、
あなたのビジネスでも置き換えてみてください。
たとえば、あなたがパン屋(パン職人)で、とても美味しいパンを作ることができるとします。
しかし、そのパンを食べてもらえなければ、ほとんど無価値です。
そして、パンを食べてもらうために必要なのは、”売ること”です。
ボランティアの世界とアンパンマンの世界は、「製造と納品」だけですが、
現実のビジネスの世界では、その対としての「マーケティングと販売」が必要になります。
あなたが”ビジネス”のオーナーであるならば、
この事実を”常に”アタマに叩き込んでおく必要があります。
―― 引用ここから ―――――――――
受け手のニーズを考えよ
芸術でさえ正当化する必要がある。このきわめて意味深い事実は、芸術の目的、そして他のすべてのコミュニケーションの目的に関して、我々に多くのことを教えてくれる。繰り返しになるが、詩人や画家は、特別な方法によって、読む人や見る人の心に感情をかき立てたり、隠れた真実を伝えたりしようとする。ただし、受け手との交流を通してしか、その努力の効果が検証されないし、真実も明らかにされない。森の木が倒れる時に音がするかどうかは学術的に論じられても、詩や絵画に価値があるかどうかは学問では語られない。それを判断できるのは受け手だけである。
クリエイティブな仕事に携わる人々は、周囲の反応を通してしか自分の仕事に意義を見出せない。エズラ・パウンドは「偉大な作品のなかで最も輝きを放つのは、作者が思いのままに言葉を紡いだ部分である。逆に精彩を欠くのは、読み手を惹きつけたり、つなぎとめたりするために、仕方なく書いた箇所である」という言葉を残している。我々はパウンドを、20世紀において「芸術のための芸術」をひたむきに訴えた芸術家と理解しており、ここで紹介した言葉はそうしたパウンド像とたしかに重なり合う。
だが、パウンドの生涯をたどってみると、優れた詩人の作品を発表する場を探すために、より大きな熱意を費やしたことがわかる。なぜなら、誰の目にも触れず、誰の耳にも入らない芸術は、限りなく無価値に等しいからである。価値は芸術作品そのものに宿るのではなく、受け手によって授けられるものなのだ。
広告に関しても同じことがいえる。期待どおりの機能を果たす製品だと受け手を納得させない限り、その広告に価値はない。
こうした議論から導き出されるのは、芸術と広告に共通の特徴ばかりである。どちらも事実を忠実に表現しているわけではなく、誇張に満ちている。「素のまま」よりも深い、感性に響く現実を掘り起こそうとしている。共に方向性の違いはあっても、「より高尚な」目的を掲げている。出来栄えの良し悪しは、受け手への影響の度合い、つまりは受け手の心をどれだけ動かせるかで決まる。
芸術と広告が根本的に同じだと言いたいのではない。筆者が主張したいのは、両者は共に普遍的な人間の性を映し出している、という点である。人は、人間が目にするもの、気付くものすべてに、シンボルや装飾を通した解釈を必要としている。それが得られなければ、「興味がない」として切り捨てる。
広告はシンボルを用いて製品を礼賛する。シンボルと製品との関連をよりはっきり捉えるためには、企業に「美しく装ったメッセージ」を求める消費者の姿勢について、さらに説明すべきだろう。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
ではまた。