形は「理想的な」機能に従う
週末のレビットアカデミー『広告の倫理性をめぐる考察』です。
前回の『イメージや約束が付加する価値』からの続きです。
マーケティングを学問に分解すると、行動心理学×数学です。
それを踏まえて・・
レビット博士のいう「我々は自分にないものを求めるのだ」という言葉を解釈して、
なんとしてでもご自身のビジネスに取り入れてください。
―― 引用ここから ―――――――――
形は「理想的な」機能に従う
ありのままの機能や中身を見せただけでは、消費者はけっして満足しないだろう。「形は機能に従う」とは、まったく的外れな表現である。ほかの常套句と同様、英知が詰っているからではなく、語感のよさや簡潔な表現だという理由で、多くの人に記憶されているだけなのだろう。この言葉に真実があるとすれば、「機能」をきわめて柔軟に解釈して、想像上の機能にまで広げた時のみである。我々は特定の製品を購入しようとするのではない。人生の課題を解決する「ツール」として、機能への期待を購入するのである。
通常の状況では、購入判断を下す際にはまず、製品を単なる機械として物理的な視点から眺めるだけではなく、それがどのような効用を持つのかを見極めなくてはならない。実際に使ってみたうえで製品を購入することは稀である。ほぼ例外なく、使用前に購入判断を下さなくてはならない。実体験による裏付けのないまま、相手からの約束を基に選択するのだ。
したがって、その約束を我々に伝え、記憶させておくためのシンボルは何であれ、大きな役割を担っている。工夫に富んだ広告や凝ったパッケージは、我々の心にさまざまな約束やイメージを焼き付ける。それらは、物理的なモノではなく、売り物としての製品にまつわるものでもある。言い換えれば、広告やパッケージは製品の「豊かさ」や「充実度」を我々に伝える。そして、製品についての抽象的で多面的なイメージが我々の心のなかに形成される。イマニュエル・カント風の表現を用いれば、「経験に依存しない完璧さの概念」とでもなるだろうか。
だが、「約束やイメージはそのそも実質を伴わない」と言ってもおそらく過言ではないだろう。熱愛を経験した人なら心当たりがあるように、何かの約束を信じてひたすら相手を追いかけたとしても、約束がそのまま実現されることはまずない。我々は人生経験から、思い通りにいかなくて落胆するのはよくあることだと学び、予防線を張ったり、失望を抑えようとする。そして芸術、建築物、文学、さらには広告などにすがって、これから直面するであろう荒涼たる現実から逃避する。我々は、絶対に手に入らない虚構の「夢の城」に憧れる。すでに起こった現実を再確認しても仕方ない。我々は自分にないものを求めるのだ。
世界のだれもが、自分なりのやり方で人生の大きな課題を解決しようとする。己の小ささをいかに乗り越えるか。気まぐれな自然の脅威からいかに身を守るか。生きていくうえで避けて通れない義務や仕事に、どのように意味、安心、快適さなどを見出すか・・・。
広告、製品デザイン、パッケージなどには誇張や歪みがあるといわれる。しかし、その多くには、我々が何とか生き抜こうとして周囲の環境に示す反応が、集約されているのではないか。誇張や装飾なしには、人生は単調で味気なく、苦しく、悪夢のようなものだろう。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
ではまた。