偽りとは何か
どうしてもこのタイトルですと、昨今の食品偽装が連想されますが、広告全般のハナシです。
というわけで、週末のレビットアカデミー『広告の倫理性をめぐる考察』です。
前回の『シンボルの重要性』からの続きです。
―― 引用ここから ―――――――――
偽りとは何か
詩的なかたちでの物事の説明は、物事そのものと同じであるかのようなたたずまいはしていない。どれほど柔軟な解釈を試みても、広告もそのように装ってはいない。広告は人間の願望を象徴している。広告は製品の実物とは違うし、そうと装うつもりもない。人々から実物と同じだと見られているわけでもない。センター・フォー・リサーチ・イン・マーケティングが何年か前に行った調査によれば、消費者はこの点を心の奥底で見事なまでに理解しており、広告はあくまでも広告であって、事実に基づく報道とは違うと心得ている。
ガルブレイス教授でさえこの点を認めている。「現代人は大量の情報にさらされ、その信頼性はまちまちであるため(中略)ほとんど無意識のうちに、さまざまな情報源の信頼性を割り引いて考えるようにしてきた。あらゆる広告形態に関して、100パーセントに近い割引が行われている。ほんの小さな子供でも、テレビから『朝食シリアルは健康増進や体力維持に繋がる』というメッセージが送られてくると、『CMだからね』と受け流す」
言うまでもなく、ガルブレイスは広告の効果まで割り引いて考えているわけではない。むしろまったく逆である。「(CMを)信じてもらえないからといって、消費財の需要マネジメントが暗礁に乗り上げるわけではない。消費者の心のなかに、うっとりするような製品イメージを生み出すのも、需要マネジメントの一環である。深く考えずに購入するような製品に関しては、消費者はおおむね無意識のうちにイメージに反応する。そのようなイメージを紡ぐためには、バラ色の夢物語の方が、詳しいデータよりも価値があるかもしれない」
言語学者などコミュニケーションの専門家は、センター・フォー・リサーチ・イン・マーケティングが導き出した次のような結論に賛同するだろう。「広告は象徴の世界に存在する象徴体系である。そのリアリティは、象徴であるという事実をよりどころにしている。(中略)広告の中身はけっして現実そのままではなく、現実に関して何かを伝えるだけである。あるいは、受け手との間に絆を築き、それによって受け手の実生活に影響を及ぼすだけである」
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
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ではまた。