消費者よ、なんじを知れ
面白いのは、レビット博士が呼びかける先ですね。
レビット博士のいう我々を言い換えると「我々一般消費者」になるのですが、
もちろん一般消費者は博士の論文は読みません。
(公務員も税金を払っているんだというように、マーケターや広告屋も一面では一般消費者だともいえますが)
もちろん、レビット博士はそのあたりのことを理解しています。
この論文自体が、誰のどんな問題を解決しようとしているのか?
そんな視点を持って読んでみると、とても参考になるのではないでしょうか。
―― 引用ここから ―――――――――
消費者よ、なんじを知れ
消費は我々にとってきわめて日常的な行為であるため、消費者としての自覚を持つことが望ましい。
なぜ消費をするのかといえば、何らかの問題を解決するためである。医大に入学するとか、独身者だけを対象としたカリブ海ツアーに参加するなど、言わば新たなチャンスを掴み取るための消費ですら、問題を解決したいという動機に基づいている。少なくとも、医学生はどうすれば健康に生活できるかという問題を解決しようとし、ツアーに参加する女性は人生の伴侶探しという課題を解決しようとしている。
製品の「目的」とは何か。それは、エンジニアが「これがこの製品の目的です」と表立って述べる中身ではなく、消費者が胸の内で「これがこの製品の目的であるべきだ」と考える中身である。したがって、消費者はモノを消費するのではなく、期待されるベネフィット(便益)を消費する。化粧品ではなく化粧品が約束する魅力を、直径四分の一インチのドリルではなくその大きさの穴を、株式ではなくキャピタル・ゲインを、数値制御によるフライス盤ではなく故障せずに正確に動く金属部品を、低カロリーのホイップ・クリームではなく非常に便利な「自分への贅沢なご褒美」を消費するのだ。
この区別は非常に重要であり、それを誰よりもよく知るのは自動車広告のクリエイターたちだ。彼らが訴えるのはクルマ本来のメリットというよりも、乗り手のステータスを高める、女性の気を引きやすい、といったメリットだろう。自分で気付いているかどうかは別として、我々は実際に、シンボルを生み出すことを広告に期待し求めている。人生の可能性を示し、自分たちには見えない可能性をもたらし、殺伐とした現実を忘れさせてくれるように。「単調で説得力に欠ける説明に、巧みに真実味が添えられたらいい」と強く望んでいる。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
では、次回で完結です。