広告とうまくつき合う方法

というわけで、週末のレビットアカデミー『広告の倫理性をめぐる考察』もこれがラストです。
前回の『消費者よ、なんじを知れ』からの続きです。

―― 引用ここから ―――――――――

広告とうまくつき合う方法

型にはまった、ありきたりなものがあふれている現状では、それ以外のものを「事実と違う」「詐欺まがいだ」「取るに足らない」などと片づけるのは不合理だろう。世の中は人々の期待やニーズに沿って動いている。時代錯誤で浮世離れした評論家による、小難しい説教調の理屈に沿って動いているわけではない。彼らは別の時代を念頭に置いているのではないだろうか。なぜなら、親の手厚い庇護の下、人生の厳しさにさらされずに生きていく、などというのとは現代ではありえないからだ。

この点を肝に銘じたからといって、広告、販売促進、パッケージング、製品デザインなどにありがちな無作法な側面、意図的にだまそうとする行為、反面だけの心理などを容認するわけではない。とはいえ、批判を展開するなら、その前に装飾と不誠実さとの違いを理解し、不誠実さが今の時代にはいかに稀であるかを心得ておいたほうがよい。コミュニケーションが氾濫するこの時代、販売促進がうるさいほど盛んだが、それを深く考えないまま悪意と混同する必然性はない。

したがって焦点となるのは、いかに歪みを避けるかではない。どのような種類の歪みを自分たちが望んでいるのかを確かめ、謝罪、不誠実さ、悪意などと距離を保って人生を耐え抜くことが重要である。だからといって、毎日のように接する商売用のプロパガンダをすべて受け入れよということではない。広告の氾濫は豊かさの代償として無条件に容認すべきというわけでもない。「企業には消費者との関係を改善することはできない」「政府も両者の関係を変えるべきではない」といったつまらない考えを受け入れる必然性もない。

これまで我々は、恥ずべき失敗を重ねてきた。消費者の保護。製品の等級、ラベル、パッケージなどの標準化。消費者による情報収集を容易にするための環境整備。広告にありがちな俗悪さやうっとうしさの緩和・・・。これらに向けて、強力で有意義な施策を導入できずにいた。同じような失敗をこのうえさらに重ねても平気でいられるのは、よほどつむじ曲がりな人だけである。

ただし、消費者は昔ならがらのジレンマに苦しんでいる。「真実」を知りたいが、その一方で、広告主やデザイナーによる心なごむイメージや心強い誓いの言葉を期待し必要としているのだ。企業はその板ばさみになる。「華やかな宣伝文句など使うものか」という企業は、まず確実に苦境に陥るだろう。純粋な機能だけを購入する人などいないからだ。とはいえ、大言壮語が横行したのでは、致命的な規制を招いてしまう。そこで、いかに中庸の道を探るかが課題となる。この探究に当たっては、これまでに慣れ親しんできたもの、あるいは実行が検討されているもの以外にも、実に多くの方策がある。

~中略~

人間らしい生活を楽しめる環境をつくるために、広告の自由をわずかばかり制限したからといって、世界が破綻するわけでも、資本主義が終焉を迎えるわけでもないだろう。産業界は自分達のためにも、この目的の実現に向けて熱心に努力できるはずだし、そうすべきである。ただしその際には、実現可能な範囲がどこまでかを抑えておいた方がよい。

天井の楽園といえども、何もかもが自由に手に入ったわけではない。禁断の果実に手を伸ばした者は、その代償を払うはめになった。

セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)

―― 引用ここまで ―――――――――

完結しましたので、以下バックナンバーです。
広告には規制が必要である
我々は広告に何を期待するのか
事実の歪曲と創造的な装飾との違い
ありのままの状態では耐えられない
立派な聖堂を建てる理由
「聖なる」こじつけと「世俗的な」こじつけ
目的の違いで正当化されるのか
受け手のニーズを考えよ
イメージや約束が付加する価値
形は「理想的な」機能に従う
シンボルの重要性
偽りとは何か
消費者よ、なんじを知れ
広告とうまくつき合う方法

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