サービスの問題は「心の姿勢」に帰せられるのか

実はレビット博士をはじめとした論文には、一定の”型”があります。
起承転結でいえば、その中で何を語るのか、ということです。
(こんな視点で論文を読むヒトはほとんどいませんが・・)

これは、コピーライティングを学ぶ上でも意識しなければならないことです。

ちなみに、前後を含めて語られていることは”問題提起”です。

―― 引用ここから ―――――――――

サービスの問題は「心の姿勢」に帰せられるのか

サービスを提供する側-サービス産業であれ、メーカーや小売企業における顧客サービス部門であれ-の問題は、大昔の前産業時代の発想に囚われていることである。さらに困ったことに、それをかたくなに守って放さないため、合理主義を自称する人の頭脳までもがマヒしかねない。

「サービス」という言葉を耳にすると、個人的奉仕という昔からの色褪せたイメージが浮かんでくる。サービスは、ある個人が他の個人のために奉仕する行為だとされており、自愛や義侠心、自己犠牲、または服従や従属、抑圧といった、昔ながらの連想が浮かんでくる。

この意味からすると、人は自分がそうしたいがためにサービスする(牧師や政治家のように)か、他から強制されているがためにサービスする(ウェイター、メード、ベルボーイ、掃除婦のように)。教会や軍隊のような、どちらかというと社会的地位の高いサービス業においては、非合理的に、決められた通りに儀式的に行動することが多い。そうでないサービス業では、顧客に対する服従が求められる。

どちらの場合においても、独自の考え方をすれば仕事を失ってしまう。サービスを向上させるために最も重要なことは、エイビスのように「もっと額に汗して努力せよ」ということになる。いままでやってきたサービスを向上させるには、ただひたすら努力を重ねるほかない。

これは今日でも変わらない。昔の主人は労働を鼓舞するために神の意思か親方のムチを利用したのに、現代の産業社会ではトレーニング・プログラムやモラール向上のセミナーを利用する。長い年月を経たのに、サービス向上の方法も、その成果もほとんど進歩していない。つまり、サービスは人間の努力が中心に考えられるため、失敗の原因がみな個人の心の姿勢に帰せられてしまっているのだ。

セオドア・レビット『サービス・マニュファクチャリング』
(1972年ハーバード・ビジネス・レビューより)

―― 引用ここまで ―――――――――

ではまた。

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