製造の論理が約束するもの

週末のレビットアカデミー『サービス・マニュファクチャリング』です。
前回の『サービスの問題は「心の姿勢」に帰せられるのか』からの続きです。

レビット博士のカナリ重要な主張が込められている箇所です。

―― 引用ここから ―――――――――

製造の論理が約束するもの

次に、製造を考えてみよう。製造は他人への奉仕ではなく、効率的な生産を目指す。だから、人間関係はビジネスライクで、地位や人間性にまつわる面倒な含みは一切ない。

製造方法の改善について考える時、仕事の成果を向上させることだけを考えるのではない。まったく新しい仕事の方法を発見するか、もっと徹底的に、仕事そのものを実際に変えてしまう方法を見つけ出そうとする。いままで以上にひたすらエネルギーを発揮する(奴隷のように重労働する)とか、さらに自己犠牲の範囲を広げる(牧師のようにもっと献身的になる、もっと神に忠実になる)とか、もっと従順でありたいと主張する(番頭のごとく主人へのへつらいの程度を高める)などとは考えもしない。

代わりに、いままで以上に努力して、ある問題に対する別の見方を学ぼうとする。具体的にいうと、所期の生産目標をいちだんと高めるためには、どんなツールが必要か、どんな技能、工程、組織編成、給与、管理、監査が考えられるかを問題とする。つまり、製造は技術の論理で考えられるから成果をあげているのだ。

製造は、これに必要な作業のなかにその解決法を探す。たとえば、低価格の車を作ろうと思えば、自動車の本質の構造そのものから解決策が生まれる(もし車が多数の部品で組み立てからできていないとしたら、組立ラインでは製造できない)。これに反してサービスでは、その解決策を作業の実施者のなかに求める。これは、人間が遠い祖先から引き継いできた奇妙な遺産である。サービス向上の決め手は、そのサービスを行う人間のスキルと態度を高める以外にない、と考えてしまう。

こう言うと語弊があるかもしれないが、技術の論理ではなくて人間の心の姿勢でサービスを考えている限り、現代経済のサービス部門は永久に非効率で、満足度も低いままだろう。我々はサービスを、個人的な奉仕であり、個人が他の個人のために直接行う何かである、と見ているのだ。

サービスを人間の心の姿勢だけから考えると、人の使い方、特に組織されたグループの使い方について考えなくなる。新しい解決策と定義を求める努力が難しくなる。作業を再設計し、新しいツール、業務プロセス、組織を創造し、問題を生んだ条件を排除することも難しくしてしまう。

製造業において、高コストの気まぐれな職人芸は、低コストで成果の予想が可能なメーカーに取って代わった。サービスの質と効率を向上させるには、この技術論的思考を応用せざるを得ない。

セオドア・レビット『サービス・マニュファクチャリング』
(1972年ハーバード・ビジネス・レビューより)

―― 引用ここまで ―――――――――

 

ではまた明日。

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