似てしまったのはマネジメントの失敗である
そして、レビット博士の筆が走ります。
経営者と経営者を相手にビジネスをされている方は、必見でしょう。
―― 引用ここから ―――――――――
『似てしまったのはマネジメントの失敗である』
経営陣がマネジメントに失敗したというのが、その答えだと、筆者は考えている。
リサーチ担当者たちによる自信満々でもっともらしい主張に、そそのかされたのである。
ただし、そそのかされたといっても、まったくの不本意というわけではない。
相手に迎合した面もある。
百歩譲っても、例によって「自分たちは悪くない」という面目を保つために、ささやかな抵抗を装ったにすぎない。
経営陣はある意味、みずから誘惑に乗ったともいえる。
なぜなら、市場調査は経営陣を極楽へと導いてくれる、甘美な恵みのようなものだ。
消費者調査によってリスクを低減できるなら、リスクを完全に取り去ることもできるのではないかとつい思ってしまう。
調査には、意志決定にまつわる日々の不安から経営陣を開放する力がありそうで、興味をかき立てられる。
こうして、調査結果がわかるまで意思決定が先延ばしされる。
つまり、調査は式決定を促すどころか、経営陣を深刻な優柔不断に陥れている恐れがあるのだ。
この一連の流れから分かることは、調査への信頼感によって担当者の立場が強くなり、結果の信頼性がいっそう高まるというよりも、実際には信頼性が薄れているということだ。
専門家による購買意欲調査は、いかにも信頼性が高そうに見える。
しかし、そのような印象は何らかの根拠があるのだろうか。
それとも単なる印象にすぐないのか。
専門家自身も、自分たちの技能が急速に受け入れられているとはいえ、期待とは裏腹に手放しに喜べる状況ではないことを承知している。
厚い信頼と尊敬を集めるドナルド・L・カンター(テイザム・リアド・アドバタイジングのクリエーティブ・リサーチ局のディレクター)は、「新たなイメージを追い求めるリサーチ」という論文でこの点を容赦なく批判している。
購買意欲調査の専門家は当然ながら、信頼に足る結果を出せずにいることに頭を悩ませており、報告書の多くに「これまでの知見に基づく暫定報告書」という但し書きが添えられているのはそのためだという。
購買意欲調査はいまだに技術的に未成熟な部分があるので、その主張の正当性を立証するのは往々にして難しい。
調査結果の「信頼性」は客観的な証明よりもむしろ、担当者がそれらしく断言したことや、顧客の「感性」に「(結果は)真実」だと「語りかける」ような、入念なプレゼンテーションのやり方に支えられている。
二人の専門家が一年がかりで丹念に調べ上げた結果、二音節のなじみ深い英単語のうち、活力、モダンさ、若さ、強さ、軽さ、躍動感、物語の主人公のような勇敢さ、などを意味する言葉をブランド名にする必要があると「示唆」すれば、専門家が全員一致で述べた驚くべき内容に、だれが反論しようとするだろうか。
自分やすでに他界した親戚を称えるために、すべてをリスクにさらしてまで、聞きなれない名前や異国の名前を選ぶ人がいるだろうか。
「エドセル」「タッカー」「フレイジア」「ヘンリー・J」のその後の運命は、頑固な経営判断の顛末として人々の記憶に生々しい。
入念なリサーチの結果、「緑の平原やあたり一面の氷の持つ涼やかさなどが、顧客から好感を持たれる」と言われれば、経営者はだれも「理屈ではそうかもしれないが、実際には多くの人が、泥だらけの象の写真を好むだろうから、当社はその路線で行く」などと発言して、科学崇拝に水を差したりしないだろう。
大学を優等で卒業して博士号を取得した立派な経歴の持ち主が「片耳にイヤリングをした禿頭のトルコの宦官」が男らしさを発散させる姿こそが、多目的液体クリーナーのシンボルとしてふさわしいと自信満々に言い放ったなら、それに従った経営陣を責めることができるだろうか。
リサーチ会社の元幹部で、自身も博士号を持つスチュアート・ヘンダーソン・ブリットはこう述べている。「ビジネスパーソンのなかには、相手が博士の肩書を持っているというだけで『リサーチ』に金を払う人たちがいる」
セオドア・レビット『購買意欲調査をめぐる狂想曲』
(1960年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
最後のあたりは、まさに、ロバート・B・チャルディーニ著『影響力の武器』で語られた【権威】ですね。