広告には規制が必要である
それでは、はじめましょう。
『広告の倫理性をめぐる考察』です。
インターネット(インターネット広告)も考慮すると、
消費者が見聞きする広告の状況は、
1970年のアメリカも、現代日本も、
まったく変わらない、ということですね。
―― 引用ここから ―――――――――
広告には規制が必要である
本年(1970年)、アメリカにおける広告出稿額は200億ドルに達する見通しである。ところが、そのなかで消費者に歓迎されるものはごく一握りにすぎない。広告は行く先々で我々を待ち構えていては、「いつもと違った行動を取るように」「いつもと違った方法を選ぶように」と、視覚や聴覚にうるさく迫ってくる。そうでなくても緊張の連続だというのに、我々は朝から晩まで広告による怒涛の攻撃に執拗にさらされ、その勢いは激しさを増す一方である。そして案の定、当然の反応が起こった。多くの人々が、やかましい宣伝広告はやめてほしい、せめて緩和してほしいと思うようになったのだ。
人々は広告の一掃や間違った中身の訂正を求めている。消費者のはかない財布の中身を狙って、新製品が競い合うように次々と投入されるなか、より大胆な広告が増えている。昨年、アメリカのスーパーマーケットの店頭には、一週間に100アイテムもの割合で新商品が登場した。これを年間ベースに換算すると、すでに出回っているアイテムと同じ数が新たに加わったことになる。これだけ大量の品を売りさばくのは至難の業なので、広告がつい行きすぎとなり、消費者の堪忍袋の緒が切れて「誇大広告だ」「偽りがある」との苦情が噴出するのは無理もないことである。
誇張や偽りのない、中身の確かな広告は、一般の人々が出す案内広告だけだといってもよい。そのほかの広告はどれも、嘘八百でないにせよ、意図的な脚色が施されている。
広告に対する批判は各方面から寄せられている。実際に最近の調査によれば、最も多くの広告に接触するのは高収入層で、彼らの富は大量の広告を生み出す産業からもたらされている。また、生活の隅々にまで広告が入り込んでいる現状に関しては、それほど多くの人が頭を痛めているわけではなく、人々を最もいらだたせているのは広告内容の偏りや偽りにあるという。
このような不満を受けて、フィリップ・ハート、ウィリアム・プロクスマイア両上院議員が、「消費者保護および景品表示法案」を議会に提出する運びとなった。両議員によれば、消費者は製品やサービスに関する虚偽を嫌い、真実を知りたいと望んでいる。こじつけや歪曲ではなく適正な説明を求めるのと同時に、押しつけがましく無作法な広告にたえず悩まされる状態からの解放を願っている。
競争に委ねているだけでは好ましい状態は実現しそうにないので、法律によって規制するのが適切だと思われる。競争によって、いずれは虚偽や見せかけの類は一掃されるだろうが、だまされる側はそれを悠長に待ってなどいられない。だまされる側は、財力も教養も乏しい層とは限らない。我々の多くは生活の糧を得るために働くのに忙しく、競合する製品やサービスについてのさまざまな主張に対して、その成否を専門的な観点から判断することはまずできない。
供給側が専門家であるのに対して、消費者はしょせんアマチュアである。商売の世界では、消費者は無力で小さな存在にすぎず、けっして王様ではない。これに対して供給者は巨大なチカラを持つため、両者は対等な関係を持ちえない。このような状況では、競争によって消費者の利益になる方向に事態が進むとは、まず考えられない。とりわけ短期的な改善は期待できず、その間にも消費を通して弱者から強者へと富が移転する。売り手間の競争によっても、広告による「迷惑」は解消されないだろう。むしろ競争が激しくなるほど、広告の害は広がると予想される。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
ではまた。