事実の歪曲と創造的な装飾との違い
「工場では化粧品をつくります。店舗では希望を売ります」とか、
今回は、約束の有形化にも通じる、いいことが書いてあります。
(レビット博士を相手に、おまえは何様なんだと怒られそうですが・・)。
では、どうぞ。
―― 引用ここから ―――――――――
事実の歪曲と創造的な装飾との違い
事実とは何だろうか。詩について考えていただきたい。詩の狙いは広告と同じく、読み手に影響を及ぼすことにある。読み手の知覚や感受性に訴えかけ、おそらく気持ちまでも変えさせようとする。巧言や美辞麗句と同じように、説得や誘惑の目的のために詩は詠まれる。詩心の限りを尽くし、さまざまな凝った手法で飛躍した表現を編み出すが、詩人に罪の意識はなく、批判も恐れていない。ジョン・キーツがギリシャの壺を題材に詩を詠む際には、技術的な視点に立ってそのつくりを忠実に表現するわけではない。その代わりに、格調、幻想、響き、押韻、引喩、隠喩などに細心の注意を払いながら、叙情的で大げさな、明らかに事実とは異なる表現を編み出す。それに対して、世の中から惜しみない賛辞が贈られる。他の芸術家やアーティストたちも、表現の手段や技法は違っても、詩人と同じことを見事に成し遂げれば絶賛される。
産業界も芸術家と同じように事実を歪曲してよい――そう正々堂々と主張してもかまわないだろう。違いがあるとすれば、産業界では自分たちの創作物を広告、意匠、パッケージなどと呼ぶことくらいだ。芸術と同じくその目的は、幻想、暗示、象徴的なイメージなどを駆使して、素っ気ない機能だけではない何かを約束し、受けての心を揺さぶることにある。
レブロンの創業者チャールズ・レブソンはかつて、自社の事業について問われて、「工場では化粧品をつくります。店舗では希望を売ります」という実に意味深い返答をした。もとより、レブソンは思い違いをしていたのではない。女性たちが求めるのは化学物質としての化粧品ではなく、ひとを惹きつける魅力である。その魅力は、人目を引く華美なパッケージや、夢をかき立てる広告として、科学物質に添えられたうっとりするようなシンボル(象徴)によって約束される。
企業は一般に、製品を三度にわたって飾り立てる。第一に、製品そのものをデザインする際に、見た目の美しさや信頼性などを持たせる。第二に、パッケージをできる限り魅力的なものにする。第三に、その魅力的なパッケージを訴求力のある絵、写真、コピー、表現、音楽などを総動員して宣伝する。
一例として、古代ギリシャの壺は水などの液体を運ぶのに使われたが、そのためだけなら、優美な曲線形にしたり、赤や黒で絵付けをしたりする必要はなかっただろう。女性用のコンパクトには、精製されたタルカム・パウダーが入っているが、それだけでは、コンパクトに美しい装飾を施す理由にはならない。
詩人も広告制作者も、自分たちの作品の味気ない機能性を称えたりしない。その代わりに、創造的な装飾を用いて、奥深い情感を表そうとする。そうした情感は、事実を忠実に説明するだけではとらえ切れない。広告、詩、その他の手法によるコミュニケーションには、自由な発想に基づく解釈が含まれ、象徴的な表現を通して、受け手を見知らぬ世界を体験したような気分にさせる。コミュニケーションは、それが表現しようとする事物とはあくまでも独立している。このためコミュニケーションはすべて、何らかのかたちで現実と遊離することが避けられない。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
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ではまた来週。