ありのままの状態では耐えられない
週末のレビットアカデミー『広告の倫理性をめぐる考察』です。
前回『事実の歪曲と創造的な装飾との違い』からの続きです。
実はわたしは、劇作家出の小説家志望だったので、
今回レビット博士が言っていることはよくわかります。
広く芸術といわれるものは、レトリックの競い合いだったりします。
たとえば小説ならば「○○は絶望した」と書くのは最低です。
その絶望した様子を、そうとは言わずに、文章で表現してこその小説です。
詩、音楽、絵画も同様です。
ある言いたいこと、描写したいことがあって、それをあの手この手で表現する。
なんでそんな手の込んだことをする必要があるのでしょうか?
レビット博士の言葉で、謎が解けました。
―― 引用ここから ―――――――――
ありのままの状態では耐えられない
詩人、小説家、劇作家、作曲家、ファッション・デザイナーなどには共通点がある。みな記号的なコミュニケーションを扱い、天地が創造された直後のようなありのままの自然には満足していない。案内広告のようにただ事実を述べるだけでは飽き足らない。芸術はすべて、自然の外見に手を加え、飾り立て、粗野な自然の姿に彩りを添えたうえで、人々の前に披露する。人間はそれをほめ称え、魅惑的な広告に惹かれてレブロンの化粧品を熱心に買い求める。
たいていの人は、神によって創造されたありのままの自分を受け入れていない。さまざまな目的を同時に果たすために、慎重に着る物を選ぶ。防寒のためだけでなく、たしなみや体面のため、あるいは周りの人々から好感を持たれたいという目的があるのは言うまでもない。女性は化粧水、パウダー、口紅などを使っておしゃれをする。男女ともさまざまな方法で髪型を整える。これまで広告に煩わされた経験などいっさいない、アフリカの奥地の住人と同じように、我々はみな指輪、ペンダント、ブレスレット、さらにはネクタイやネクタイ・ピンなどで自分を飾る。
我々は粗布を身にまとっているわけでも、みすぼらしい掘っ立て小屋に住んでいるわけでもない。もちろんそれが、パリッとした服や、人々であふれ汚染された町にある暖房の利きすぎた家よりも劣っているということではない。しかしどこにいようと、人はみな気まぐれな自然の恵みを拒む。本来は粗野でぱっとしないつらい現実を、自分なりに文明化されたものにしようと型をつくり、外見を装う。創造主の意図に逆らって、人生の耐えがたさを和らげようとする。T・S・エリオットの詩の一節にあるように、「ありのままの現実ばかりを見せつけられると、人間は耐えられない」のである。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
ではまた。