立派な聖堂を建てる理由
“ものはいいよう”とはいいますが、どこまで許されるのでしょうか?
そして、舌鋒鋭いレビット博士の指摘は、どこからが舌禍事件となるのでしょうか?
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立派な聖堂を建てる理由
エリオットによるこの一節(注:「ありのままの現実ばかりを見せつけられると、人間は耐えられない」のこと)は、職業を問わずあらゆる人にあてはまる。歴代のローマ法王はみな、莫大な建造費をかけたサン・ピエトロ大聖堂や、その内部の贅をきわめた装飾を容認してきた。世界を見渡しても、法王が節制や禁欲を説くのに使う当の聖堂ほど、人間の物欲を強く象徴したものはない。キリストと仏陀はともに慎ましい暮らしをし、現世のものとは思われない無私の心を持っていたとされるが、聖職者たちは、信者たちを啓発し、高潔さを培い、結束させるにはそれだけでは足りないと考えている。「聖堂をより壮大に見せたい」というきわめて現実的な発想を基に、組織を挙げて、神を祭った聖堂に豪華なデザインと高価な装飾を施していった。自動車メーカーが<キャデラック>に、高級車にふさわしい外観や内装を用意するのと同じように。
社会、文化、民族、発展段階を問わず、人間はみな、原始のままの自然に手を加えようと忙しく立ち働いている。この点を理解するのに、社会人類学の博士号など要らない。国や地域を問わずだれもが、自分を取り巻く世界を飾り、充実させ、つくり直したいと考えている。現状をあえて歪め、過酷さや退屈さを和らげようというのだ。人間にとって文明化とは、古来の獣性を乗り越えようとする試みであり、芸術や広告もその一環である。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
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続きはまた来週。