「聖なる」こじつけと「世俗的な」こじつけ
週末のレビットアカデミー『広告の倫理性をめぐる考察』です。
前回『立派な聖堂を建てる理由』からの続きです。
“ものはいいよう”ではありますが、
芸術は許されて、広告は許されない、
もし、それがまかり通るとしたら、
どんな理屈でしょうか?
レビット博士が噛みつきます。
―― 引用ここから ―――――――――
「聖なる」こじつけと「世俗的な」こじつけ
しかし、文明化の洗礼を受けた人は間違いなく、革新的な芸術家も、上品な貴婦人も、「現実を歪めている」わけではないと言うだろう。彼らはただ、より美しく、より輝かしく、より優れたものを目指しているだけだと。だが、これら3つの言葉は、芸術について語るときと、世俗的な試みについて語るときとでは、大きく異なった意味に用いられているはずだ。
とはいえこの区別は、見せかけや取り繕いでしかない。人間は文明化し、情緒が豊かになるにつれて、客観的には区別できない、いくつもの対象の微妙な違いを見極めようと、実にさまざまな方法を見出してきた。「聖なる」こじつけと「世俗的な」こじつけがどう違うのかを見ていこう。
鋭い感性を持った教養人はおそらく、芸術家の仕事に無限に近い重要性や美徳を認め、賛美するだろう。ところがその一方、広告類の発展性や大きな美徳はけっして認めず、「広告はどれもみな、似たような手法で我々をだまそうとする」という主張に頷くのだ。では、そのような人はどれだけ「判断力を備えている」のだろうか。
さしあたり、芸術家による誇張や装飾と広告制作者のそれとの間に、目的や仕事の進め方に違いはない、という前提を設けたい。つまり、「どちらも、主観を排して事実に沿った説明を行うのではなく、イメージや感情を紡ぎだそうとしている」と考える。この前提に立つと、芸術家の作品に広告よりも大きな美徳があるとすれば、その美徳は主観的な要素から生み出される。具体的にそれは何か。
芸術はより高尚な目的を持っているから、人類にとっての価値も大きいはずだ、との意見もあるだろう。たしかに芸術家は哲学的な真実や英知に興味を抱き、広告マンは商品やサービスを売ろうとする。ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の天井画の構想を練る際に、人間の魂の昇華について思いをめぐらせたが、化粧品のパッケージのデザインに携わるエドワード・レビーにとって大切なのは、いかに消費者の心をなびかせ、財布のひもを緩めさせるかである。
しかし、芸術の価値と広告の価値の違いについてのこの説明は、まったく参考にならない。「より高尚な」目的さえあれば、すべてが許されるのだろうか。
そうではないはずだ。恐らく、その逆こそ真実に近いと思われる。広告マンやデザイナーは、受け手に顧客を変えようとするだけだが、ミケランジェロは受け手の魂を揺さぶろうとした。どちらがより大きな冒涜だろうか。人々のエロティックな欲望をもてあそぶのと、魂を揺さぶろうとするのと、どちらが世の中へのより深刻な侮辱だろうか。どちらの行動が吟味、正当化しやすいだろうか。
セオドア・レビット『広告の倫理性をめぐる考察』
(1970年ハーバード・ビジネス・レビューより)
―― 引用ここまで ―――――――――
次回に続きます。